長文語りブログ

気持ちが昂ったときだけ更新するブログです。

話がしたいよについて話がしたいよ

最初BUMP OF CHICKENの『話がしたいよ』をフルで聴いたとき、藤原基央もしかして結婚して子供いる?って思った。

 

それくらい今までの藤原基央の詩じゃないと感じた。ただ今までも何度か作風の変革期はあったと思っている。

感覚的なものだが個人的にアルバム『ユグドラシル』、シングル『HAPPY』、アルバム『RAY』そして今回のシングル『話がしたいよ』だ。

 

これらは全て「今までのBUMPじゃ作らないような曲」が発表されたときであり、アーティスト藤原基央の立ち位置、また今見ている目線のようなものがある種、【曲の成長】という形で目に見えて現れたのではないかと思った。

 

【曲の成長】とは何か?説明するに、これまでとは異なる毛色の作品を自らの作品として発表することは、本人ら以外は理解しがたい恐怖心や好奇心、自尊心といった内面の大きな変化があると思っている。これらの転機を【曲の成長】と表現した。
 
ユグドラシル』では自我の塊で尖りまくっていた時期を超え、オーディエンスをしっかり見て表現者として沸かそうと意識するようになった作風に。
『HAPPY』以降は自己肯定を促す歌詞が顕著になり、生きることへの感謝とそれを共有しようとする作風に。(またこの頃から「狙って「こんな曲を描きたい」というのが出来るようになってきた」感じがする。本当にこれは私の主観。)
『RAY』ではエンターテイメントに特化しバラエティに富んだ表現の多様性を狙い、「喜び」や「楽しみ」の色が強まった作風に。
そして今回の『話がしたいよ』は、電子音がキラキラと踊っていたような、これまでの曲とは一転、再び素朴さが隣で顔を伺ってくるようなある意味で懐古的だが『ベンチとコーヒー』『supernova』などとは明らかに違う藤原基央だと思った。
 
なんとなく、藤原基央はもうユグドラシルorbital period期のような歌詞でさえ描けなくなってるのではと思った。描かないよりも、描けないの方が近いと感じる。38歳の彼はもうドアの前で自己の肯定と否定に悩み揺れ動いたり、はたまた舵をとれと命令口調で叫び歌いMVでウインクをかますこともない。深い水たまりの中で君との繋がりを命がけで求めることや、四畳半の部屋でプラネタリウムを組み立てることもないのだ。なぜなら今のBUMPの曲は、もうあの頃とは物事を見る目線も立ち位置も価値観も「成長して」変わった藤原基央が書く曲なのだから。
 
これは懐古厨としては寂しさや悲しさを覚えるものの、藤原基央絶対唯一神宗教団体会員としては今この2018年の10月を生きる藤原基央の作風の変化を味わって噛み締めることができる幸せや、なんと言っても彼の作品たちを追いかけることで気づく変化や表現の進化がたまらなく好きで、10年間ずっと藤原基央の曲に一目惚れを繰り返しているのだ。
 
「今までのBUMPが好きだった」人は、その時代に寄り添ってくれた藤原基央が好きだったのだと思う。いわば元彼だ。彼の曲の雰囲気は変わっても、本質的に藤原基央と言う人間はいつだって根暗で人見知りで優しく、無口だが語りだすと雄弁、そしてとても繊細で、誰よりも強い。
 
 《追記》

ただ、今後もうメーデーのような曲は作れないにしろ、去年2017年に発表した『記念撮影』は、MVも相まって昔聴いてた「あの頃のBUMP OF CHICKEN」を思い出させる、宇宙のような深海のような濃い藍色の背景が眼に浮かぶ曲だった。ただこのとき思うことは、「あの頃とは?」という疑問。これの答えは例えば『ロストマン』もしくは『メーデー』、私は『pinkie(HAPPYのc/w)』というように、きっと人によってまちまちだと思う。誰に向けた歌かも分からないがこの系統の作品は、おそらく彼の「お気に入り」のイメージなのだと思う。BUMPの曲にはよく「過去の僕と君」なる存在が登場する。二人は昔一緒にいた者同士だったが、時間の経過とともに別れがやってくる。そこから今、さらに未来に向けて僕は君を忘れないままに一人で進んでいく…。こんな世界がよく描写される。君は"YOU"なのか、はたまた"別のME"なのかは聞き手の解釈に寄るものの、詰まる所、藤原基央は10年ほど前からぼんやりと表現したいもの(また「表現する」のが好きな世界観のもの)については用いる文体や音のツールは変化しているにしろ、ずっと発信し続けている。いいよね、記念撮影。

 


これからは10年のBUMPクソオタクの意見なので信憑性や客観性に欠ける話になるため読み飛ばしていただいて結構です。
 
まずそもそも藤原基央の歌詞にガムは絶対出てこないでしょ。ガムって噛んでると味がなくなるので大人になる人間や社会の象徴として扱われるモノですよね?でも逆にそんな安直で使い古された物体に藤原基央は絶対に触れなかった。というか食べ物自体そんなに印象的に用いられたイメージが無い。魔法の料理は「子供のころそこにあった」という象徴的かつ具体的(おい日本語とは?)なテーマで料理が登場したがカレーだのハンバーグだの食材には触れなかった。だってそれはカレーが子供の頃食卓に出なかった家庭もあるからだよ。でも今回ガムって。ガム…ガムかぁ…。
なんだろ?全体的に歌詞が優しすぎるんだよね?子供に語りかけるような。「お薬」って…。えっ…38歳児…。今までなら絶対「薬」って言うはず。
あとめっちゃこれ反感を買いそうなんですけど途中取ってつけたような「ボイジャー」。なんの脈絡もなく突然ぶち込まれる天体モノにすごく違和感がありまして、これに思ったのは「オレ昔こういうの好きだったんだよね」って言う自己紹介のような何か(?)察して。だってベンチとコーヒだと思ってたら突然の宇宙探査機の話ですよ。は?ってなるよ。そしてボイジャーと言えばやっぱりアルバム『orbital period』の一曲目『voyager』ですよね…。応答を願って周回軌道上に漂う「ワタシ」は「君がここにいたら 話がしたいよ』の歌詞に通じるものがありますがやはりなんとなくこじつけじみてわざとらしい気がします。脈絡のない思い出話のようは感じなんでしょうかね?「プラスチックのなんとか剣」みたいに、昔好きだったことについてふと思い出している大人のようなものを感じました。

極め付けは「ガムを紙にぺってして」ですよね???は??は???誰?、、?これひっくり返るくらい衝撃だったんですけど…えぇ…。ぺって何…?これでなんとなく「子供に話してる?」って思っちゃったんですよね?つまりは?今子供がいると仮定すると、アリアくらいに結婚して…?記念撮影をし…?妖怪ウォッチのゲームの歌を歌い?ガムをぺってする??えぇ……私たちいつの間にできちゃってたん……??